都電荒川線の北の部分は東京の微妙に垢抜けない地域を貫いている。
大塚駅前、王子駅前、と進んで行くうち車内はじんわりと郷愁を帯びたものへ変わっていき「千と千尋の神隠し」の電車のような雰囲気が時折漂うようになる。乗客はどんどん入れ替わり、この路線を乗り通す客は少ないことが見て取れる。自分もそうだし。
吊り掛け台車の車両は沿線の住宅には相当の騒音を浴びせているはずだが、それが問題になったことはない。
「ガタン、ゴトン」というか、音を正確に表現すると「ババン、ボボン」という音をまき散らして下町の闇を切り裂いていく。その姿は機械でありながらどこか生き物のような生々しさをまとっている。
1970年代初め、都電は全廃されることがきまっていてこの、現荒川線も廃止されるはずだった。自動車社会が進展し、自動車より加速力もトップスピードも低い路面電車は交通渋滞の原因とみられて邪魔者的な見られ方をされるようになる。いま振り返ればそれは濡れ衣なんだが。
毎日だか朝日だかのモノクロのニュース映画では、労働者としては異例の偉そうな髭をたくわえた都電荒川線の名物運転手が取材されていてその中で「廃止が決まっている」と明言されていた。その映像の中の現在の荒川線は非常に多くの乗客を運んでいて、インタビュウされた和服のおばさんははっきりと「無くさないでほしい」と確信を持った答えを返していた。
系統単体で見た場合見過ごせない黒字を上げていたことと沿線住民、沿線教育機関の要望を受けなし崩しに廃止は延期されていく。
しかしガソリンや軽油は極めて安価で、この先自動車社会はどんどん広がっていき、路面電車はなくなって当然のものと思われていた。
排出ガスによる公害や交通事故の問題は深刻になりつつあったがそれでもまだ金儲けの方が大事だったのだ。先の事なんて全く考えちゃあいなかったのだ。
バカだよ。ほんとにバカだ。安い油をガンガン燃やして金を儲けて、いい気になっていた。その金は本当にもうかった訳じゃなくて、暴利の借金に等しかったんだがな。
そんな中1971年にモービル石油がオイルショックを予感していたかのようなCMを放映して物議を醸し出したりはしていたがね。ホイ。
1973年10月に第四次中東戦争が勃発し、中東産油国が石油の価格を吊り上げ、石油危機が発生した。
折しも、自動車の排出する未燃焼ブローバイガスが紫外線で化学変化を起こして発生する光化学スモッグが社会問題化しており、また、燃料費高騰から開業したばかりの個人タクシー運転手の自殺から、伝説化しているトイレットペーパーの奪い合いまでいろんな騒動が勃発して今とは比べものにならないほど石油に依存していた社会はがたがたなってしまった。
それまで未練がましく廃止延期をくりかえしつつ廃止撤回には至らなかったものが今風の言葉でいうエコロジー的な観点とオイルショック後の光化学スモッグの発生回数の激減という結果をみて風向きが一気に変わってしまったのだ。
一年後の1974年10月に都電残存区間の廃止計画は撤回された。
インターネットなんてない時代に普通の人々はデモを打つでも無く、さほど横の連絡も無く、せいぜいちょっと本音をあちこちでこぼしていただけだがともかく行政を動かしてしまった。
通勤、通学に使ってるとか、停留所脇で商いしているとか。あれが好きでねなんてのもいただろう。
都電として最後の唯一無二の存在になったためか、愛着は増し共有財産的な感情が生まれたのではないかと想像したくなる。
自分の物だと思っているならいくら音や振動に見舞われようと文句があろうはずもない。脱線して飛び込んでくりゃ話は別だがそんな話は無い。今日も明日もあさっても轟々バタバタと音を立て
都電は走りつづける。
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