ああ、そういえばここは貝塚がメインなんですよね。せっかくですし行ってみましょうか。
丘を降りるとこんなかんじの風景。ガラス張りの建物が貝層断面観覧施設というもので普通は施錠されていますがガラスの屋根から中を覗けます。
地表からすぐに貝があるんですね。今立っている足のすぐ下が貝。という事みたいです。
下りてきた小道を挟んだところの石柱の周りはきちんとガードされてますが、なんでかなとよく観察すれば、
貝がそこらじゅうに露出してます。昨夜の味噌汁の具を撒いたか?というくらい散乱してるんですな。
帰宅後、調査を始めるとこの貝塚が記録にあらわれるのは凄く古い。奈良時代に元明天皇の詔によって編纂された常陸国風土記の那珂郡の条。「学者が発掘しましたよ」ということではなく土着の民への聞き取り調査でこの貝塚の存在が明らかになっている。
"平津の駅家の西一、二里に岡有り。名を大櫛といふ。上古人有り。躰極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海浜の蜃 を摻りぬ。其の食へる貝、積聚りて岡と成りき。時の人、大挎の義を取りて、今は大櫛の岡と謂ふ。"
貝塚と一緒にダイダラボウらしき存在の話が記録されているのだ。奈良時代の公式記録に。
縄文時代海辺だったこの辺りは奈良時代すでに地球寒冷化で海岸線は後退し現在の太平洋岸と大差無い状態になっていたそうだ。それで、こんなに海から離れた所に海の貝のゴミがあるなら余程大きな人がここから手をのばして貝を掘って喰ってうっちゃらかしたんだろうという想像をしたということなのだろう。海浜の蜃というのはハマグリのことね。
奈良時代、同種の話は公式記録上には播磨国風土記に現在の兵庫県内陸の多可郡の地名の由来にからめて出てくる。こちらは他の地では頭が空につかえて身をかがめて歩いていた巨人が、この地では体を伸ばせたことで「ここは空が“たか”くていいな」と言ったので多可という地名になったというものだ。どちらも極めて初期の、素に近い記録で貴重なものだ。この播磨風土記の巨人はこれか?
色々と調べていてある人気作家のデビュー作のある部分に思い至った。
「ふふふ」
京極堂は含み笑いをした。
「何だい気味の悪い」
「関口君、じゃあ君はダイダラボウシの存在も肯定
するね」
「君はいよいよもってどうかしているね。ダイダラ
ボウシといえば昔話に出てくる巨人だろう。そんな
もの存在する訳はないじゃないか」
「なぜだい?条件は家康と然程変わらないぜ」
「全然違うじゃないか。片や歴史上の人物で、片や
お伽噺のお化けじゃないか」
「だって記録に残っているだろう。どちらも確認で
きない程古い話だ。それにダイダラボウシは昔話や
お伽噺と違ってね、伝説だ。〈むかしむかし、ある
ところに〉じゃないんだ。例えば〈上古の頃、常陸
国の那珂郡に なんだ。場所が明確だし、痕跡だっ
て残っているよ。勿論一箇所じゃなく各地に伝わっ
ているが、それぞれの言い伝えが互いに矛盾を起こ
したりすることはない。死因がいくつもあるよりは真
実味があるじゃないか」
これか!ここのダイダラボウは京極堂シリーズ一作目「姑獲鳥の夏」の序盤で言及されていたダイダラボウシなんだ。
いやぁ、どこかでお逢いしたような気がしてましたわ。はっはっは。
え?さっきのローカルアイドルの女の子たちダイダラさんの歌うたってるんですか!凄いですね兄貴!へっへっへっ。
完
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