オートレース発祥の地と云われてますが、1950年秋に開業した時は船橋競馬場のトラック内側にダートコースとしてオープン。この地へは1967年に、現在伝説とも幻とも語られる船橋サーキット跡地にアスファルト舗装オーバルコースを建設して移転
舗装路、1周500mのオーバルというフォーマットを編み出したのは大井競馬場の北側隣接地に1954年にオープンした大井オートレースだそうですからオートレース発祥についての解釈は色んな見方ができますね。この船橋オートも大井オートをモデルにしてコース設計をされています。(大井オートレースは1970年に八百長事件でライダーに多数の逮捕者を出して美濃部都政下の公営ギャンブル廃止政策の標的となり1973年に廃止されている。)
船橋ヘルスセンターと船橋サーキット
この地は埋め立て地として誕生し、天然ガスの試掘でガスと温泉が出たため今のららぽーとの所に朝日土地興業の手で1955年に船橋ヘルスセンターという今でいうスパリゾートハワイアンズのような観光施設がオープンする。海側のエリアは当初余剰地だったが、創業者子息の丹澤章浩氏が主導して人工ビーチや軽飛行機による遊覧飛行の滑走路を設置する。
一方、1964年に日本通運が設立した日通伊豆観光開発という会社が伊豆の韮山にサーキット建設を目論み、元F1レーサーのピエロ・タルッフィを招聘して現地視察してもらうが、
用意された用地が足りない上にさらに買い増ししても各種法令で開発が不可能なことが判明。日通の計画は頓挫する。
しかし、タルッフィの日本滞在中に銀座の社交の場でマキノ正美氏(俳優の林正美。のちにJAF会長)から丹澤章浩氏へ話が通る。「次は、サーキットをやってみないか?」てなもんで。
これは、タルッフィを招聘したのに仕事を依頼できないままカラ手で帰す事になりそうな日通が八方手を尽くしていたところに芸能界と当時の特権階級的な自動車オーナー達の両方に顔が利くマキノ氏がウマくはまったようだ。
当時、船橋ヘルスセンターでは余興のステージに北島三郎氏や村田英雄氏といった一線級を出演させており、その際に余禄として遊覧飛行をプレゼントしていてその他の歌手たちも遊覧飛行を楽しみにして出演依頼を受けていたという。その辺りから船橋ヘルスセンターにはまだ広大な余剰地が残っていることがマキノ氏へ伝わっていたと思われる。そこに、歳の頃40台前半。父親の立ち上げた事業で大滝滑りを始め数々のアトラクションを企画し、そのことごとくを当てたアイデアマン。英国製スポーツカーMGやロータスを乗り回す伊達者のカーマニア。旺盛な事業欲をフェロモンのようにぷんぷんとまき散らす丹澤氏がザギンを肩で風切って歩いていれば声をかけたくもなりますわな。
コース設計の仕事がポシャってがっかりしていたタルッフィは飛んでくる。遊覧飛行もしたかもしれない。韮山の酷い条件を見た眼にはまばゆい広大で平坦な土地。
「なんと整地まで終わってるじゃないか、鉄道もある。細いが国道も近い。やろう、すぐやろう。工事は半分終わってるじゃないか!」
さぁやるぞ、と動きだしたのが'64冬で、そこからタルッフィが図面を引いて施工は清水建設。'65年7月18日にはこけら落としのレース、『全日本自動車クラブ選手権レース(船橋CCC)』が開催された。すでに整地されていた土地だったとはいえ、凄まじいスピードです。
船橋サーキットをCG動画で再現なさった方がいらっしゃいます。
動画中走るのは、現実にはここを走ることは無かったホンダRA300 操るはBIG JOHNことジョン・サーティースという妄想上の競演です。
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